代表ヒストリー
幸光技建が現在に至るまでの
歴史をお届けします。
春本家の長男として誕生。
1986年11月18日筑紫野市にある「ながかわ産婦人科」にて、5人兄弟の2番目に長男として誕生。
太宰府市で育ち、太宰府西小学校に入学。
小学校4年生の夏、早くも将来が決まることに。
少年時代の祖父の一言から
私には尊敬する母方の祖父がいます。祖父は少年飛行兵として特攻隊に入隊すべく訓練を重ねていた時、終戦を迎えたそうです。
祖父は当時の事を、「これから祖国の日本はどうなっていくのか・・・自分は自決すべきなのか・・・人生が真っ暗になった。」そう話してくれました。
その後祖父は建設省(現在の国土交通省)に入省し、定年まで働きました。定年退職後には、祖父の趣味であった作詞をしていたのを子どもながらに覚えています。
後に知ったのですが、祖父は「眞はじめ」の名で、筑紫野市歌、筑紫野中学校歌、春日野中学校歌の作詞を手掛けていました。
他に作詞者が祖母の「真次茂子」となっている、筑紫野音頭があるのですが、実はこの詩は愛妻家だった祖父から祖母へのプレゼント、俗にいうところのゴーストライターなんだそうです(笑)
そんな祖父から私は、書道や日常マナーなどを厳しく教育されました。当時私は月に1度は祖父の家に預けられ生活。
そんな小学校4年生のある夏の日、祖父からある事を質問されました。「将来の夢は決まったね?」当時は厳しく怖かった祖父に質問された私は、決まってないとは言えないと思い、頭の中で色々考えました。
仮面ライダー、ベジータ、ドラえもん・・・いやいや、そんなこと言えないよな。あ!そういえば!家のリフォームをしてる大工さんカッコいい!
「大工さんになる!」と毎回毎回答え続けることになったのです。
そう繰り返しているうちに、将来は大工になっている事しか考えられなくなっていました。それが大工になるきっかけになるとは、自分でも驚きです(笑)
大工の道へ
太宰府西中学校3年生の進路相談の時、私は大工の弟子入りの希望を伝えました。しかし祖父に、「高校は出ておきなさい」と言われ、筑紫台高校の建築科に進学することに。
高校に入学すると友人が、「部活入らん?」と誘ってきました。「どうせ入るなら弓道をしてみたい!」そう答えた私は、友人と二人でその気になっていたのですが、家庭の事情から部活に入ることができず私だけ帰宅部に。
その時の友人ですが、2年生の春になんと弓道個人で日本一に。そんな友人とは違った普通の高校生活を送った私。卒業後は予定通り大工の道へ。
弟子入りが決まり、修行が始まりました。当時の会社は篠栗の「南蔵院」や、太宰府の「太宰府天満宮」の工事にも携わっていたので、圧倒的に腕の良い兄弟子が多く、その中で揉まれながら仕事をしていました。
修行は想像以上にきつく、辛い事もたくさんありました。けれども8人もの凄腕の大工に鍛えられたことは、とても恵まれた修行期間だったのだということを、今となって痛感しています。
そして5年間の修行の後、弟子上げをさせていただき、晴れて一人前の大工に。
運命
そこから2年が経った頃、独立をすることに。独立のキッカケとなったのは、一言で言ってしまえば、時代の変化です。
弟子入りした頃は、家の骨組みとなる部分は全て自らの手で加工する、手刻みでした。
しかし、その後はどんどん合理化が進み、世間では工場の機械で加工する、プレカットが主流となり、リーマンショックの影響も重なったことで、手刻みの仕事は激減。
大所帯だった当時の会社でも仕事が減り、将来に不安を感じた私は独立を決意したのです。そして、独立を決意したタイミングと合わせたかのように、ある出来事が。
帰宅で車を走らせていた時、電話が鳴りました。当時交際していた彼女からの電話でした。「妊娠したみたい・・・」一瞬で頭の中が真っ白に。
頭が真っ白すぎて、米の山峠を走っていた途中の記憶がありません(笑)大好きだった彼女と結婚する事は意識していたので、とても嬉しかったのですが、
という思いも同時に頭を駆け巡っていました。すでに独立する事は親方に言ってしまった後。不安がMAX・・・けれども、どうせ結婚するなら、子の親になるなら、絶対に幸せにしてやる!!!この思いが腹をくくらせました。
この時人生で初めて、運命ってすごいと感じました。
幸光技建の誕生
個人事業主の一人親方の大工として独立。その頃、双子の弟2人が中学校を卒業し、私に弟子入りをしました。(現在、一人は別の道を歩み、一人は現場監督として一緒に働いています。)
そして前の会社にいた時に知り合った草野大工が仲間入り。創業当時は4人で、「幸光技建」としてスタートしました。
なぜ幸光技建という名前なのか?私は、家づくりを通して家族が幸せになってほしいそう強く思っています。なぜなら、人生でおそらく一番高価な買い物で、一生に一度の買い物をしようと思う時は、家族が幸せな時に考えるのではないでしょうか。
そんな幸せな家族に、家づくりをして不幸せになってほしくないのです。幸せを提供するのなら、家づくりをする私たちがまずは幸せにならなければ。そう思いました。
そう考えていた時にふと思い出したのが、父方の祖父の会社でした。祖父は軽運送の会社を経営していて、社名は「三光運輸」。
由来は祖母の名前の三千代から「三」の一字と、祖父の名前の武光から「光」の一字をとって命名したそうです。この名前の由来を知り、仲の良い祖父母を見ていて、あんな風になりたいなと思った私は、妻の幸枝から「幸」の一字と、私の光大から「光」の一字を採用し、「幸光技建」と名づけたのです。
筑紫野市にこだわって
独立後まもなく、ある出来事が起きます。それは母方の祖父の他界。
祖母は私が大工の弟子入りをした頃に他界し、愛妻家の祖父はそれからすっかり元気を無くしていたのですが、私が独立して約1年後に他界。
他界する前日に病院にお見舞いに行った時、「苦しい・・・」といった事が今でも忘れられません。祖父から初めて聞いたネガティブな言葉だったからです。幸光技建がスタートした場所は祖父の家でした。
私が大工になりたいと言った小学生の頃、祖母が言いました。「大工さんするなら加工場が必要やろうから、この家はあっくんにあげるよ」私が大好きな祖父母の想いがつまったこの場所。
ここで工務店を経営する事が、祖父母への恩返しになると考えています。そして、作詞家として筑紫野市に名を遺した祖父の想いを継ぎ、筑紫野市を拠点とすることが、筑紫野市への恩返しでもあります。
ずっと変わる事のない「家づくり」への想い
幸光技建は、職人の技でお客様を幸せにしたいという想いで2011年に開業いたしました。日本の昔ながらの住宅は100年という長寿命でした。しかし現在の木造住宅の寿命は約30年と言われています。それは町の大工の工務店が失われていき、本物の家を提供できない事も理由かもしれません。本物の素材を使わない流行を取り入れただけのデザインや間取りは、年月とともに魅力が色褪せていき、建て替えのサイクルを縮めることにもつながってきました。
家づくりに携わる大工として、素材にこだわる事は当たり前ですが、いろいろと勉強していくにつれ、家の素材がいかに健康と密接に関係しているのかという事を知りました。
私は幼い頃、アトピーと喘息持ちで育ちました。経験がある方はご存じだと思いますが、アトピーは本当に痒くて辛いのです。幼い頃の私はすぐ泣く子で、(今でも少し感動したらすぐに泣きます・・・・・・)泣けば泣くほど喘息も酷くなり、ダブルパンチで苦しんでいた記憶があります。
しかし、当時もっとも苦労したのは、そんな私を世話する両親だったのだろうと今では思います。私には愛する妻と子供が2人います。私が子供の頃に経験した辛い思いは、自分の子供にはさせたくない。そして家族みんな、健康で長生きをしてほしいそう願っています。
祖父母にも、もっと健康で長生きしてほしかったと今でも思います。家と健康には密接に関係があるその事を知った私は、家の素材に徹底的にこだわり、全ての家に自然素材を採用しています。
一生に一度の買い物が、家族を不健康にするなんてあってはならない。家づくりを通して家族が幸せになってほしいずっと変わらないその想いを胸に、これからも幸光技建は歩み続けます。